詩碑「天日燦として焼くがごとし 出でヽ働かざる可からず 吉野義也」 1972年、妻せいとともに開墾した菊竹山(いわき市好間町北好間字上野)に建立(草野心平揮毫)された。

三野混沌

三野混沌(みのこんとん)は、1894(明治27)年3月20日、福島県石城郡平窪村(現在のいわき市平下平窪)曲田に生まれました。本名は吉野義也(よしのよしや)、一時、別筆名・台原扶を使いました。
混沌は、磐城中学校卒業後、家業の農業に従事。この頃、伝道師として平に赴任していた詩人の山村暮鳥(やまむらぼちょう)との親しい往来が始まり、その交友は1924(大正13)年に暮鳥が没するまで続きました。
1916年1月、好間村(現在のいわき市好間町)北好間の菊竹山で開墾を始めた混沌は、翌年、猪狩轍弥と「農夫」を創刊、昭和戦前までにいわき地域で発行された詩誌の中心人物となりました。1917年には、好間村川中子の猪狩満直が初めて混沌を訪ねています。一時、上京して早稲田大学高等予科で学んだ混沌は中退して菊竹山に戻り、1921年3月、若松せいと結婚。本格的な開墾生活に入り、梨と自給自足の野菜を作りました。
1927(昭和2)年、混沌は3月に詩集『百姓』(土社)、4月に『開墾者』(土社・銅鑼社)を刊行。1930年12月、この年3月に生まれた二女梨花(りか)を急性肺炎で亡くした混沌は、翌年1月、詩「梨花(リーコ)」を書いています。
戦後、農地委員会小作委員となり東奔西走した混沌は、1947年7月、草野心平らの詩誌「歴程」同人となり作品を発表。1954年7月、『阿武隈の雲』(昭森社)を刊行しました。
1970年4月10日、混沌は76歳の生涯を終えました。混沌の没後、せいが執筆した『暮鳥と混沌』『洟をたらした神』『道』には、夫妻の生活が描かれた作品も収められています。




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