草野心平の生涯
草野心平(くさのしんぺい)は、1903(明治36)年5月12日、福島県石城郡上小川村(現在のいわき市小川町)に父馨、母トメヨの二男(長女綾子、長男民平、心平、三男天平、二女京子)として生まれ、祖父母のもとで育ちました。幼い頃から腕白でひどく癇が強い子どもだったようです。本を食いちぎり、鉛筆をかじり、誰かれとなく噛みついていた幼少期を、心平は、故郷の阿武隈山系に見られる大花崗岩のように「ガギガギザラザラ」だったと描写しています。
1919(大正8)年、県立磐城中学校を中退、上京した心平は、翌年、慶応義塾普通部に編入。そして1921年、中国、広東省広州の嶺南大学(現・中山大学)に留学しました。この時、16歳で夭折した長兄民平の遺品である3冊のノートを持参。そこに書かれていた詩や短歌に触発され、心平は詩を書き始めます。あまりに盛んな詩作に、同級生から「機関銃(マシンガン)」と呼ばれました。留学時代、心平は青春を謳歌するとともに詩人としての第一歩を踏み出したのです。
1923年夏、帰省した心平は亡兄との共著詩集『廃園の喇叭』を、母校の小川小学校から謄写版を借りて印刷します。1925年には、同人誌「銅鑼」を創刊。宮沢賢治、黄瀛らが同人でした。
同年、卒業を待たずに帰国してからの心平は貧困の中、新聞記者、屋台の焼鳥屋、出版社の校正係等で生活の糧を得ながら30回以上の引っ越しを繰り返しました。1928(昭和3)年、結婚後間もなく移り住んだ前橋では、明日の食べ物のあてもないという貧窮ぶりでしたが、同年、初の活版印刷による詩集『第百階級』が世に出ました。
心平は「蛙」をはじめ「富士山」「天」「石」等を主題にして詩を書きましたが、その根底には「すべてのものと共に生きる」という独特の共生感がありました。さらに書、画等、多彩な創作活動を展開しています。自身の歩みを「ジグザグロード」と表現したように、創作活動の一方で様々な職業に就きました。戦後、故郷の小川郷駅前に開いた貸本屋「天山」、居酒屋「火の車」とその後のバア「学校」等、その逸話には事欠きません。1935年、創刊に参加した同人詩誌「歴程」は587号(2013年12月現在)を超えて現在も続いており、高村光太郎、中原中也らをはじめ、そこに心平の広範な交友関係を垣間見ることもできます。それらが渾然一体となって心平の魅力を生み出していると言えるでしょう。
1988年11月12日、1,400篇余の詩を残し、心平は生涯を終えました。
1960年 川内村名誉村民に選ばれる
1975年 日本芸術院会員に推輓される
1983年 文化功労者に選ばれる
1984年 いわき市名誉市民に選ばれる
1987年 文化勲章受章
主な詩集
『第百階級』1928年11月 銅鑼社
『母岩』1935年12月 歴程社
『蛙』1938年12月 三和書房
『絶景』1940年9月 八雲書林
『富士山』1943年7月 昭森社
『大白道』1944年4月 甲鳥書林
『日本沙漠』1948年5月 青磁社
『牡丹圏』1948年6月 鎌倉書房
『定本 蛙』1948年11月 大地書房
『天』1951年9月 新潮社
『亜細亜幻想』1953年9月 創元社
『第四の蛙』1964年1月 政治公論社無限編集部
『詩画集富士山(棟方志功板画)』1966年6月 岩崎美術社
『こわれたオルガン』1968年11月 昭森社
『太陽は東からあがる』1970年6月 弥生書房
『凹凸』1974年10月 筑摩書房
『蛙の全体』1974年11月 落合書店
『全天』1975年12月 筑摩書房
『植物も動物』1976年12月 筑摩書房
『富士の全体』1977年6月 五月書房
『原音』1977年12月 筑摩書房
『乾坤』1979年3月 筑摩書房
『雲気』1980年3月 筑摩書房
『玄玄』1981年3月 筑摩書房
『幻象』1982年3月 筑摩書房
『未来』1983年3月 筑摩書房
『玄天』1984年4月 筑摩書房
『幻景』1985年4月 筑摩書房
『絲綢之路 シルクロード詩篇』1985年12月 思潮社
『自問他問』1986年6月 筑摩書房