猪狩満直

猪狩満直(いがりみつなお)は、1898(明治31)年5月9日、福島県石城郡好間村(現在のいわき市好間町)川中子に生まれました。私立磐城青年学校中退後、19歳頃から聖書研究と文学に傾倒し、義父との確執が表面化しました。
満直は、1917(大正6)年初夏の頃、好間村の菊竹山に三野混沌を初めて訪ね、二人の交友は生涯続きました。1922年、満直は妻木泰治らと詩誌「播種者の群」を創刊。同誌には、混沌の他、中国に留学中だった草野心平も参加しました。
1925年4月1日、満直は、妻タケオと長女百合子、長男眞と共に、北海道釧路国阿寒郡(現在の釧路市阿寒町)舌辛での開墾生活に入りました。間もなくタケオは肋膜炎を発病し、翌年9月16日、25歳で亡くなりました。1927(昭和2)年4月、小沼たかと再婚。満直は、開墾の出来ない積雪期には、炭焼きや馬橇での木材運搬・雄別炭鑛での仕事をしながら詩作を続け、北海道からいわき地域の詩誌への寄稿を続けています。
満直の第一詩集『移住民』(銅鑼社)は、1929年8月に刊行されました。この詩集の原稿は、北海道の満直から、好間村の混沌、前橋にいた心平に送られ、静岡の杉山市五郎が印刷しました。『移住民』には全国的な反響があり、鹿児島の詩誌「南方詩人」が特集号を発行しています。
1930年12月、満直は、8町2反の開墾地と馬を手放し、郷里に戻りました。1931年3月に『農勢調査』(海岸線社)、1934年2月に『秋の通信』(北緯五十度社)を刊行。内郷村(現在のいわき市内郷)、長野県飯山町(現在の飯山市)での生活を経て、気管支ぜんそくが悪化したため生家に戻り療養生活を送りますが、1938年4月17日、満直は40歳の生涯を終えました。
※満直の生家は、いわき市暮らしの伝承郷に移築されています。




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