吉野せい

吉野(よしの)せいは、1899(明治32)年4月15日、福島県石城郡小名浜町(現在のいわき市小名浜)下町に生まれました。旧姓は若松です。少女時代から文学に傾倒し、伝道師として平に赴任していた詩人の山村暮鳥らの「LE・PRISME」、「福島民友新聞」などに短歌や短編を発表。また、独学で小学校准教員検定に合格し、2年ほど小学校に勤務しました。その後、鹿島村(現在のいわき市鹿島町)の八代義定の書斎「静観室」に通い、多くの文学書、思想書、哲学書を読んでいます。
1921年3月、詩人の三野混沌(本名=吉野義也)と結婚。せいは、それまで書いた原稿や日記をすべて焼いて、好間村(現在のいわき市好間町)北好間の菊竹山での開墾生活に入り、梨や自給自足の野菜を作りました。1930年3月に生まれた二女梨花(りか)は、その年の暮れ、急性肺炎で亡くなりました。せいは、翌年1月から、梨花への想いを日記に綴り、小説や童話を数編執筆しています。
1970年4月10日、混沌が亡くなりました。草野心平の強い勧めもあり、せいは71歳になって、再びペンを執りました。1970年から2年間、いわき市内の夕刊紙「いわき民報」に「菊竹山記」と題して、断続的な連載をしています。
1971年10月、暮鳥が混沌に宛てた書簡を軸とした評伝『暮鳥と混沌』(歴程社)を刊行。1974年11月、『洟(はな)をたらした神』(彌生書房)を刊行。翌年、同書により、第6回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回田村俊子賞を受賞しました。
1977年4月、『道』(彌生書房)刊行。前年11月から、せいは、綜合磐城共立病院に入院していましたが、この年11月4日、78歳の生涯を終えました。




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