草野天平
草野天平(くさのてんぺい)は、1910(明治43)年2月28日、東京市小石川区(現在の文京区)に父馨、母トメヨの三男として生まれました。草野心平は7歳年上の次兄にあたります。1915(大正4)年、本籍地である福島県石城郡上小川村(現在のいわき市小川町)に移り、祖父母に育てられていた心平とともに約5年間暮らしました。
1920年に上京後、京都、群馬などを経て、1933(昭和8)年4月、東京の銀座8丁目に喫茶店「羅甸区(らてんく)」を開店。同店で働いていた三原ユキと結婚し、1935年には長男杏平が生まれますが、この間に「羅甸区」は閉店となり、生活に困窮します。天平はこの頃から文学に興味を抱き、心平が持参した岩波文庫などを耽読。1941年頃から詩作を始めたとされています。
1942年1月、妻ユキが亡くなると、幼い杏平を連れて故郷に帰り、雑誌などに作品を発表。1947年に詩集『ひとつの道』を刊行しました。
1950年6月、天平は滋賀県大津市坂本の比叡山に行き、8月には飯室谷の松禅院(しょうぜんいん)への入居を許されて、詩作に専念する生活を送ります。同年10月、鈴木梅乃と結婚。梅乃は天平とその詩作を支えましたが、天平は徐々に体調を崩し、1952年4月25日、詩業半ばにして生涯を終えました。享年42。天平は、松禅院にほど近い、琵琶湖が見える西教寺に眠っています。
天平が亡くなった後、梅乃は天平の作品の顕彰を続け、1958年に刊行した『定本 草野天平詩集』が第2回高村光太郎賞・詩部門を受賞。その後、1969年、『定本 草野天平全詩集』『《挨拶》草野天平の手紙』、2002(平成14)年、『《三重奏》草野天平への手紙』などを刊行しました。
一方、1986年、かつて天平が滞留した比叡山西塔に、詩碑〈弁慶の飛び六法〉を、そして2006年、草野心平生家敷地内の蔵跡に詩碑〈幼い日の思ひ出〉を建立しました。また、2002年、「うえいぶの会」による詩碑〈一人〉(文学館敷地内)の建立に協力しています。
2006年7月30日、梅乃は半世紀余りに及ぶ顕彰活動とともに85年の生涯を終え、天平に寄り添うように西教寺で眠っています。